「あんな、父ちゃん――」
見知らぬ人が同乗する車の中で、彼女は言った。
「いつかお金ができた時、遊園地つれてって?」
僕は、わずか4歳足らずの彼女の発言によって、
2つのショックを受けた。
ひとつめは、多くの人も同じように思うことだろう。
ふたつめのショックは衝撃ではなく、
20を迎えた僕の胸のうちに今になって実感として響いてきている。
僕には5歳の姪がいる。
当然のようにだだをこね、物事が意図通りに運ばないことを嫌がる。
何故嫌がるのか。
いや、質問の方向を変えてみよう。
何故、彼女は遊園地に行けない事を嫌がらなかったのか。
今になって思う。
それは、思い通りに運ばない世の中に対する、
納得のいく説明が与えられているからに、ほかならない……と。
子どもは考える生き物だ。
これは、僕自身の経験からくる実感として残っている。
わからないから、考える。
何故生きるのかも、小学3年の時分に悩んだ。
おもちゃが買えない理由は手元の小銭を見れば分かるのだが、
おもちゃを買うお金を親が与えてくれない理由までは、子どもには分からない。
子どもだからじゃあない、あくまでそれは
「他人の事情」であり、子どもの知らない情報だからだ。
納得の行く説明を受ければ、子どもは理解する。
送ってもらった車の中での出来事は、そのことを学ぶ機会となる、
大切なチャンスとなった。
そして、時折こちらにイタズラな顔を見え隠れする彼女とその親は、
まるで友だちであるかのように会話のキャッチボールをしていた。
●
今年の元旦に、僕はひとつの抱負を立てたが、
1月が終わりを告げた今、もうひとつ目標を加えようかと思っている。
少し前、学校を脱け出し多くの人と出会うまでは、
20になっても子どもでありたいと願った。
理由は単に、大人が嫌いだったからだ。
何か「大人」という存在を汚れた潔白ではないもののように思っていて、
自分は違うと言いたかったのだろう。
今僕は断言する。
潔白な人などどこにも存在しない、と。
小学生の初期、かわいいと思っていた女の子に
男子友だちと石を投げた。
中学の時、その人の綺麗な面立ちの目尻の横に傷跡を見た時、
確証もないのに罪悪感を覚えた。
友だちが買っている雑誌のふろくが欲しくて盗んだ。
胸が傷んで返したが、盗んだ事実は消えない。
カードゲームでフェアプレイをした方が楽しいと思うのは、
過去にイカサマをしたからだ。
よって僕は潔白などではない。
善き行いと同じで、悪い行いも消えはせず
少しずつ積み重なっていくのだ。
ならば、開き直って悪い行いをしたいのか?
答えは、否。
何が誰にとっていいのかは、この年になっても、
きっといくつになっても分からないだろう。
けれど、自分が間違っていると思うための線引きは、
誰にだってできるのだ。
――時間をかけ、少しずつなら。
迷って途方に暮れるのならば、これは違うという間違った道を
消去法で消していこう。
どんなに時間がかかろうとも、今はそれをすべきだと思うから。
20歳。
僕はこれから舵をとる。
針路という名の舵をとる。